ユネスコ世界遺産三内丸山遺跡へ行く
いざ、青森へ
三連休の中日に、日帰りで青森の三内丸山遺跡に行く。世界遺産に指定されてから、初の訪問となる。
少し前に「古代日本の超技術」志村史夫著(副題:あっと驚く「古の匠」の智慧)を読みだした。第1章で三内丸山遺跡の超技術について述べられている。読むうちにどうしても現地で確かめたくなったというのが訪問の動機。
期待をはるかに超えてきた
三内丸山遺跡とは、縄文時代の大集落跡である。今から約5500~4000年も前、約1500年にわたり途切れることなく定住が続いたと考えられており、「縄文」の常識をくつがえす発見だった。
すごい技術その1:掘立柱建物跡
直径1mのクリの柱が深さ2.2mの穴を掘って埋められている。2.2mといえば、バスケットの選手でもすっぽり埋まる。またその柱はすべて4.2mの等間隔で立っている。すべての柱を2度傾ける「内転び」という技術を用いて互いに倒れにくくしている。柱を埋める際には、枠をつくり少しずつ土砂を混ぜて固める「版築」の技法を使った形跡がある。この技術は法隆寺の建築にも使われており、現在も使われている。直径1mの栗柱は石斧で底を削り周囲を焦がして腐りにくく加工している。写真1⃣の建物は地上15mだが(実物はもう少し大きかったと推測されている)復元時にはクレーンを用いて組み立てられている。当時どうやって組み上げたかははっきりしていないらしい。





すごい技術その2:天然アスファルトで接着した矢尻
当時食べ残りを捨て続けた場所が水に浸かっていたのが幸いし腐食が進みにくく、さまざまな生活用品も残されていた。その中に、矢尻の根元にくっついたアスファルトが見つかっている。木の柄に付ける接着剤として利用されていたのだ。天然アスファルトを接着剤として利用した年代としては世界最古ではないかとされている。
すごい技術その3:翡翠に正確にきれいな穴をあける
写真の最後から2番目のヒスイ製大珠には、正確にきれいな丸い穴が開いている。基本石に穴をあけるには、その石より硬い石の粉を使うらしい。ヒスイはかなり硬い石で、それ以上の硬い石の入手は無理だった模様。「古代日本の超技術」ではその方法について仮説を元に再現を試みているが、実際のところはこれからの調査によるとのこと。

その他、いろいろな”すごい”はあるのだが、竪穴建物もすごい。普通の住居は3匹の子ブタの藁の家的な外観だが、地面を深く掘ることで中に入ると天井は思ったより高い。当時は当主の寿命が30歳くらいで、3世代同居はなく4人家族が主流だったので、このスケールでもなんとか暮らせたのだろう。外側が何かが分かるものは今の段階では見つかっていないか、断熱性を考えると土壁が有力だとガイドさんは言っていた。



食料の調達では、クリの栽培と土器を使いそれを貯蔵したり大型の魚(40センチクラスの真鯛など)を釣ったり、先述の矢尻で狩りをするなど、かなり豊かな食生活だったらしい。




集落の中での住み分け


また、ヒスイは新潟の糸魚川から、アスファルトは新潟や秋田から、黒曜石の矢尻は北海道から、琥珀を岩手の久慈から入手しており、同程度の規模の集落があり5000年以上前から交易が盛んだったと考えられている。
縄文文化の逆襲
縄文時代とは、大陸から稲作技術が持ち込まれ定住が始まった弥生時代前、狩猟採集によって暮らしを立てていたと歴史で教えていた。食料供給が不安定なので定住は出来ず、食料となるものを探して移動して暮らしていたのだと。しかし、研究が進めば、世界の古代遺跡に匹敵するような高度な技術が世界に先駆けて使われていたとなるかもしれない。
北東北にある自分が生まれ育った辺りでも、土器片や黒曜石の矢尻が見つかった。学校帰りに土器を探しながら畑のほとりを歩くと、たまに戦果が得られたものだ。黒曜石の矢尻を見つけられる子もいた。三内丸山遺跡はたまたま野球場の建設中に発見されたため、野球場の建設は中断され遺跡が保護されることになった。文字どおり日の目を見ない古代人たちのたくさんの生活跡が、未だに地面の下に埋もれているのだろうと思うとなんだか楽しくなる。
ついでに紅葉真っ盛りの八甲田ロープウェイに搭乗
紅葉情報では八甲田ロープウエイの中間あたりは見ごろとなっていたが、思ってたのと違ったが、山頂駅を下りてから約1時間の散策コースは気持ちよかった。


長文を直し直し書いている間に長期旅行が入ったりでタイミングがズレたけど、まあよしとしよう。


